ハリボテ探検隊

旅の途中

ウイルスとサウナ

 昨日、22時くらいに親父から電話が来て、妹が癇癪を起したせいでその飛び火を食らったという話を聞いた。ちなみに、今回の記事とは全く関係がない。

 

その時、僕は体調がすこぶる悪く、先週から発熱と喉の痛みと体のだるさに苦しんでいた。

その旨を父親に伝えると、

 

「お前インフルじゃね??」

 

と伝えられた。

 

チクショウ!!この時期にインフルだったらおもしろいから病院に行けばよかったぜ!!

 

確かに、ずっと首とか肘に違和感や痛みがあったし、熱は全然引かないし、体調も悪いままだし、寝ても治らない(僕は寝れば治る男である)ではおかしかった。

 

その兆候をちゃんと捉えて病院に行っていればと頭の中で考えていた時に、父親が

 

「ウイルスに一番効く方法しってるか」

 

などと抜かしてきた。

 

冷静に考えてみると、方法ってどういうことなんだ??薬とかじゃなくて??ウイルスはとにかく出せばいいわけだよな、などと考えているうちに親父が答えを言った。

 

「サウナだよ、殺菌消毒だよ」

 

思わず、

「何言ってんだこのクソじじい!インフルの時にサウナなんか言ったらクラクラになって死ぬだろよ」

と突っ込んでしまった。

 

「いや~、俺も去年死ぬほど具合悪くなったんだけど、その日にサウナ直行して入る出るを繰り返していたら治ったよ」

 

「馬鹿じゃねえか」

 

「いやいや、よく考えてみろよ。ウイルスってのは熱に弱いからサウナで殺すんだよ。」

 

「なんか理にかなっているような気がする。」

 

というわけで早速僕も行ってみた、、、

 

の前にブラジリアンワックスで脱毛した。

 

お風呂ではマナーが大事なのだよ。はっはっは~

 

しかし、風呂までは自転車で6kmくらい、最終受付は23時であるので、左足の太ももだけ毛が残ったまま僕は急いで自転車にライドオン!

 

チャリを漕いでいると、ブラジリアンワックスが残った毛を引っ張って痛い。しかし俺は絶対に間に合うぞ!!

 

どうにか受付終了3分前に到着し、脱衣所で洋服を脱いで袋に入れ、替えの洋服を準備し、タオル一枚を持って、冷水器で水をしこたま飲んで風呂場のドアを開けた。

 

そしてかけ湯を浴びて、簡単に体を洗ってからサウナに飛び込んだ。

 

「あちい~~、汗~~」

 

ここで僕は急いでいたことと、興奮に、あまりにも簡単なことを見落としていた。僕は体調が悪かったのだ。

 

「ダリいい~~~、体調わりいい~~」

 

普段なら10分くらいサウナに入っているのは余裕なのだが、5分くらいでダウンしてしまった。

 

「まだまだあ!!」

 

水を飲み、体を整えてから再度サウナに入ると、TVを見ると『陸海空』がやっていて、井上咲楽ちゃんが虫を食べていた。

 

テレビを見ていると、気が紛れてきて、2回目でも5分くらい行けた。

 

井上咲楽ちゃんも僕と同い年だという。薄れゆく意識の中、僕も負けてられないなと思った。

 

閉館時間になったので、帰った。帰りがけにメガドンでタピオカミルクティーとプリンとフルーチェを作るための種類別「牛乳」を買って帰った。

 

そしてフルーチェを作ってから就寝した。

 

翌日、サウナの疲れと、咳は残っているが、体調はバッチリだ!!!

 

終わり。

 

みなさんも自己責任で試してみよう。

最近、ブログ書いてないな。から始まるランデブー

 最近、ブログ書いてないな。それは僕に予定があるからではなく、特に書くことがない日々を過ごしているからなんだと気付かされる。緩やかな成長は、やがては大木になるのかしら??

 

 最近は梅雨になったのか、雨が続いて、なかなか外へ出て運動ができない。ソフトテニスが趣味の僕にはつらい時期だ。でも、梅雨にはいやだ、なんて湿気たことを言ってはいけないよ。だって僕らは、梅雨の時しか外に出て思いっきり涙を流すことはできないんだから。梅雨のしずくに涙を隠す。多分僕は10代を終えたら、つまりは20歳の誕生日を迎えたら、大泣きするだろう。10代の輝きやキラメキが失われてしまう気がするからだ。ウブでピュアな青春はもう戻ってこない、あとは衰えていく日々を憂いながらドロドロとした惰性な傷の舐め合いをするだけなのだ。

 

 彼女は梅雨で薄く湿った髪の毛を、人差し指に巻きつけている。くるくると指を動かすたびに、髪に染み付いたシャンプーがふわっと香る。そうして彼女が巻いた髪から指をはずすと、バネが戻るみたいに勢い良く髪が跳ねる。その瞬間がゆっくりと走馬灯のように僕の脳裏に焼き付いて、そうして僕は短い夢を見る。

 

 それは壁に囲まれた小さな世界での出来事だった。でも、実際の大きさはわからない。なぜなら、ここにいる僕が現実世界の僕の大きさと違うかもしれないからだ。人の姿は無かったが、建物はいくつか建っていたので、僕は探検してみた。すると、おそらく壁は、現実世界の尺度と同じだとすると、半径100mくらいの円周上に立っていることがわかった。壁は高さ10mくらいあるから、超えられそうにもない。それと、3階建ての建物が1つ、2階建ての建物が9つあった。3階建ての建物は、横には長いけれども厚さはそんなにない建物で、2階建ての建物は大きさはバラバラだった。一軒家のようなタイプもあれば、アパートのようなタイプもあった。誰がこんなものを作ったのか、誰が僕をこんな世界に入れたのかわからなかった。どの建物にも入ることはできたのだが、人っ子一人としていなかった。とにかく、2階建ての建物のうち、一番居心地の良さそうな一軒家タイプの家を臨時の自宅にすることにした。

 おそらく、一週間くらい過ぎたころであろうか。この世界にいると、そもそも腹は減らないが、冷蔵庫に食材はあったので、暇なときに料理をして、紅茶を入れて飲んだ。不思議と退屈はしていなかった。書庫には一生では読み切れないくらいの本もあったし。その日もすると、急激な腹痛に襲われた。みぞおちを殴られて、へそのあたりを刃物で切り裂かれ、ベニテングダケを食べたような腹痛。今朝のサラダに入れたゆで卵が原因だったのか、昨日の夜の羊肉が原因だったのかわからない。とにかく、はっきりしない激痛に襲われて、その痛みのあまり、僕は気絶しかけた。その時、懐かしい匂いが、フッと僕の首の後ろの方から漂ってきた。その匂いがなんであったのか、僕にはわからなかった。

 

 その時、誰かが僕の肩を叩いて、僕は眠りから覚めたことを知った。叩いたのは仲の良い友人のOであった。講義は終わったみたいだ。そしてすぐに、なにかに気づいたように僕は右斜め前に座っていた彼女を見てみた。しかし、彼女はもういなくなっていて、もちろんシャンプーの匂いも消えていた。外は冴えない雨がしとしとと続いていた。

 

 

”名もない変化球、意地でも打ち返そう。”

 

 

 「今日は友達の課題の手伝いで動画撮影をしていた」。そして今の僕は明日の朝に提出するレポートをやっていたんだ。

 

 去年、心理学の授業を受けた時に、考え事をして心が今ここにない、さまよっている状態はマインドワンダリングといって、リラックスしているようで実は脳はマインドワンダリングによってとてつもなく無駄なエネルギーを消費しているのだと聞いた。こういうブログを書いていると、ふとそんなことが頭をよぎる。

 

今日はこんな感じ!!上出来じゃん??

精神的に向上心のないものは馬鹿だ

多分、このブログを読んでいる人なら?誰でも知っているセリフではないだろうか??

ここでは、本文で用いられているコンテクストとは異なるので注意してもらいたい。

 

生きる意味は何だろうか??なかなか本気で考える機会が少ない。多くの人が今ある「生」が永遠に続いていくように思ってしまうからだ。こんな記事を書いている僕もその一人だ。10年後はわからないが、さすがに明日死ぬことはないだろうと考えている。身近に急逝した人もいないし、九死に一生を得たというような体験もしたことがないので、「死」が遠くにあるように感じてしまう。

 

とは言っても、死は誰にでも訪れる。「ホスピス」についての授業を受けていて、死に瀕した人のドキュメンタリーを見る。彼らがもっとも恐れていることは、自分がなくなってしまうことである。焼かれて灰になり、埋められて何も残らなくなる、そして誰の記憶からも消去される。それを最も恐れている。そして、死に追い詰められると、人は何か物質的に残そうと活動することがある。ドキュメンタリーでは、自分史を作る人がいたり、作詞を手掛けたりする人もいた。自分が肉体的に滅びても、何か自分が生み出したものを残そうとする。

 

それでは、生きる意味を考えた時に、何かを後世に残すことなのであろうか??人間は「保存」に固執する。確かにそれは、「種の保存」という生物の本能的な目的からきているのかもしれない。しかしそれは「人間」である意味にはならないだろう。

 

 

死に瀕さないと、人間は命を燃やそうとはしないということでもある。

 

 

人間は本来、精神的な自由を獲得し、自己表現をするべきなのだ。それは芸術でなくとも構わない。普段の心構えが重要なのだ。譲れない何かを持って、ひたすら突き進んでいくことが必要だ。

 

 

自由とは、安定の対義語である。

安定を選び、向上心を持たずにやり続けること、これは一種の命への冒涜である。誰の命でも輝ける炎を持っている。安定は命の炎に蓋をする行為だ。安定ばかりを選んでいたら、人生は輝きを持った魅力を持たない。

 

自然と共生することで安定を図ろうとする人がいる。自然に囲まれていつもと変わらない日々を過ごすこと、その中でみんなが笑顔でいること。自然との共生、それ自体は素晴らしい。我々は自然から生まれ、自然に育まれ、自然に還るのだから。しかし、そもそも自然は楽な環境ではないはずだ。だからこそ、自然を破壊し、その隙に自分たちの暮らしやすい人工物を根城にしたのだ。そして、自然に取り込まれているままでは、人間としての尊厳は保たれず、動物である。自然を尊敬し、その中で抵抗ことによって、命としての輝きを放つのだ。もちろん、敬うということが必須である。なぜなら、人間はどうしたって自然に勝つことはできないのだから。

 

 

自由に身を投じてみて、命がどのような輝きを放つのか、見てみたくはないか??もちろん、その際に辛く、厳しいことは起こることは承知の上だ。それでも、命、人生は美しいのだと思う。

 

とにかく、岡本太郎の本を読もう!!

春を呼んだら初夏だった

今日は、午前中に散髪に行きました。実はつくばで散髪をするのは初めてでした。今までは地元に帰って、行きつけの美容室で切ってもらっていたのですが、かの有名なホットペッパービューティーで調べて、行ってみました。素敵に切っていただきました。

 

 

そして、本題です~~!!今日の放課後は筑波大学落語研究会さんにお邪魔をしてきました。なかなか親しみがないかと思われますが、落語ですよ~~

 

twitter.com

 

 

何もせず、ただ本当にお邪魔しただけなんですけど、笑いに包まれたアットホームな感じがしてとても楽しかったです。

 

今日はミーティングの中で、新入生の高座を決めるというとても大事な儀式をしました。4年間落語をする時に使う大切な名前です。簡単に言うと、新入生が筑波大学落語研究会の亭号の中で好きなものを選び、それからみんなで名前を出していき、多数決と本人のバイアスで決めるというものです。

そんな場面に立ち会うことが出来ました。新歓などでその子に対してたくさん質問をしてそれを参考にして決めるというものです。

今日の主役は、ワンピースや野球が好きな人でした。さまざまな名前が浮かびました。そしてその結果は、、、

Twitterで確認してみてください。とても素敵な名前に決まりました。

 

 

ちなみにですが、会長さんから、会長さんをある名前で呼ぶことを公認されました。とても素敵で可愛い名前で、ブログは書いてしまうのはとても惜しいので、ここでは書きません。本当にとても素敵な名前なのです。

大学に入った目的の一つが叶いました。僕は彼女の名前を呼ぶために筑波大学に入ったと言っても過言ではありません。もう卒業しても悔いはありません。

 

 

みんな個性的で、落語をやっているためか、やはり話も面白かったです。ミーティングが終わった後に、ご飯に行くのが通例みたいなのですが、他に行く人がいなかったので、なりゆきで新入生と二人きりでご飯に行きました。

全く面識のない子とだったので、ノリでご飯に行くぞ!と言いながらもマジかよ!と面をくらいました。それはそうですよ。今日の今日まで一度も話したことのない子で、そもそも会ったのは今日初めてなのです。不安とは裏腹に、会話も弾んで打ち解けて、とても楽しい時間となりました。落研で後輩が出来ました~。

 

 

毎週水曜日は、僕は他サークルの活動があるので、今度は落研に行くのはいつになるのかわかりませんが、もしまたお邪魔しましたら、またぜひともよろしくお願いいたします!

みなさん、本当に良い人ばっかりなので、落語が好きな人や興味のある人は、ぜひ筑波大学落語研究会さんを見学してみてはいかがでしょうか。

 

今日はここらで終わり!!

春に恋して、夏は??

「春」。それは別れと出会いの季節であり、始まりの季節。辛く厳しい冬を乗り越えた後の、豊穣の実りを予感させる季節。桜の花びらは優しく甘い春の香りを運んでくる。アパートの軒下では、燕のつがいがせっせと巣を作り始めている。

 

優しい息吹が硬い雪を徐々に溶かしていく季節。凍てついた小川のほとりで小さなつくしがわずかに頭を出す。春がすぐそばに近づいているんだと思った。川の魚はどこで冬を越しているのだろうか?冬の間だけどこか宇宙の果てにある惑星の川に避寒地としてワープしているのだろうか。

 

残雪にしなる梅の木の

お花を一つ手に取って

憧れ抱くあの子へと

渡す夢見て靴紐結ぶ

 

いや、今は初夏じゃね!?(あとポエム何?)

 

最近、昼間はゆうに30℃を超えているんだぞ!!夏と言われてもおかしくないんじゃないか!!しかしそんなノリツッコミもむなしく、フクロウの声が聞こえる。

 

 

しかし、僕の心は踊っている。

 

 

されど、僕の心は踊っている。

 

なれど、僕の心は踊っている。

 

Stand up ダンスをしたいのは誰?

 

俺だ!!

 

Q.なぜ?

 

A.強い気持ち、強い愛があるから

 

 

とは言っても、残念ながら、タイトルのようにはならず、僕は春に恋をし損ねた!!損ねたと言うのもおかしいかな?恋は落ちるものだから!落ちなかったのはしょうがないじゃない??

 

 

春に恋をしていたら、夏にはその行方が分かるものくらいの期間なのだが、現状恋をしていない僕は、落ちていかなければならない!!

 

どこに落ちようか!?

まずは明日は”落”語研究会のミーティングに行って、自分を落として??いこう!!

 

いやあ、落語に行っても落ちないよなあ…

むしろ気分は上がるでしょう

 

 

 

今期アニメの『フルーツバスケット』は最高ですね!!みんなカッコいい!!イケメンは眼福である。そしてそんなイケメンたちを惚れさせる、ヒロインも最高である!!

雪が溶けたら、春になる。

彼女は俺にとって春だった。っていいセリフ。

強烈な呪いだって解き放っちゃうくらいの強い気持ち、強い愛!!僕はそれが欲しいのさ!!

ブログのモチベがなくなってきた。

狂言と、お笑い

今日は狂言を見てきた。人生で初めて見た。しかも生で。3列目で。というのも、道徳教育の先生が、チケット代は出すから興味のある人はぜひ行ってみてはどうかという粋な計らいを授業でしてくださったのだ。それを逃す僕ではない。徒然に突然現れた獲物は大きいものだ。何度も逃してきたのだが。

 

全く教養の無かった僕は、狂言?能とは何が違うんだ??と思って先生にちょろっと聞いてみた。つまるところ、狂言は喜劇が多くて、能は悲劇などが多いらしい。

先生いわく、狂言室町時代に始まったシェイクスピアの演劇よりも長く続いている芸能らしい。

そもそも、狂言が僕らにとって身近なものではないと思う。たまにチャンネルをコロコロと変えている途中に、NHK狂言だか歌舞伎だか見分けのつかない伝統芸能がやっているなと思って、またチャンネルを変える程度である。

 

今日の流派は歴史と伝統を重んじる、現代にあまり寄せすぎない流派だと聞いて初心者でありながら興奮していた。本場の本物が見られるわけだな!

 

最寄りの駅に着き、30度を越える東京のアスファルトを走りづらいコンバースの靴で駆けて国立能楽堂へと向かった。

困ったことに、楽屋入り口、事務室入り口、そして一般人が入る正門と入り口がいくつもに分かれていて、急いでいた僕はハズレを二つ引いてしまい、係りの人に苦笑された後に、残りの正解の門へと向かった。

ちなみに画像は楽屋入り口。


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一応お笑いサークルに所属している僕がお笑いバイアスを通して話すとしたら、お笑いではなかなか無い「間」であった。もしお笑いで言うならば、コントと言えるであろう狂言だが、その揺ったりとしたリズムと大きな「間」にはお笑いというよりは極めて禅や仏教に通じるものがあった。観阿弥世阿弥の本を読めば、理解が深まるのだろう。

 

「緊張と緩和」と「フリとオチ」はお笑いにも通じるものがあった。

 

とにかく間が長くて、セリフを飛ばしていてもばれないんじゃないかと思ってしまうほどだった。その間が長ければ長いほど客席には「緊張」が走り、視線は舞台へと注がれ、演者の一挙一動にどんどんと引き込まれていく。そうして笑いのポイントになると溜まりに溜まった緊張が弾けて笑いに変わる。とは言ってもそんなに大きな笑いは起こらなかった。

そもそも何を言っているか聞き取れないということが一つのフリになっている節もあったように感じた。そして、そういう時に起こる笑いは、比較的若い声が多かった。

あとは、何気に出囃子。これは一つ一つの作品を出す上では絶対に必要なんだなと思った。区切りをつけて場を刷新するという意味もあるし、作品に「音楽」という次元を一つ加えるという効果もなきにしもあらずでは無いだろうか。この理論はかなり無理があるかもしれないが。

あっ、そうだ!狂言を見ていて気づいたのは、漫才のように、話をしていない人は正面を見て、静止していた!これは漫才に極めて似ている!気付きのなかで一番興奮した。

 

なかなか、お笑いみたいに娯楽として見るよりは芸術として鑑賞している気分だった。何よりも、美術館に行ったかように、見ているだけで疲れてしまった。しかし、初めての体験だったし、楽しかった

 

とても当たり前な話なんだけれども、別に狂言とお笑いを同時に考える必要はない。お笑いサークルに入っているからやっているだけだし、あくまでも、どこかでお笑いに使えないかな?というような意図があって書いただけだから。

 

演目が終了した後に、舞台裏の見学をさせてもらった。その際に、釣狐で狐役を演じていた役者さんに話を聞いた。

狐の面というのが、演者が口を開くと狐の口は閉じ、演者が口を閉じると面は口を開くカラクリになっているらしく、どういう風にして狐の鳴き声を出しているのかは企業秘密だそうだ。

狐の鳴き声がこれまた面白く、今では「コンコン」という鳴き声が一般的だと思うが、狂言の世界ではもっと野性的な鳴き声を演じる。それがとても面白かった。

 

ちなみに、その後に東京で就職した先輩と、明日企業の面接がある先輩と、お笑いサークル元会長の人とご飯を食べた。お笑い番長はお酒が進み、かなり酔ってしまった。

元会長は現筑波大学の人間なので、一緒に帰っていたのだか、その途中の北千住で見失った。彼はもう筑波には戻ってこないかもしれない。しかし、それもお笑いだ。

 

P.S.北千住で同じ電車に乗れた。残念。

サタディ・シンドローム

休日を楽しんでおられるだろうか??5月の末で既に30度を超す天気に、一抹の不安を感じているのは僕だけではないはずだ。神様が、雲の上からミネストローネを作るために煮炊きをしようとしているのだろうか。ゆくゆくは海は真っ赤に染まって、ユーラシア大陸は分厚いベーコンに、北アメリカ大陸は玉ねぎなんかになってしまうのだろうか。困ったものである。それに、貧乏学生な僕の家にはエアコンがないのだ。

 

ところで、一番大変な曜日は土曜日だと思う。日曜日は友達のいない僕でも何かしらの予定が出来て、一日中拘束されてしまうことも多々ある。明日も東京に行って狂言を見に行く。もし早起きが出来れば、午前中に美術展に行ってしまおうかと思う。そしてその後は、東京で就職された知り合いの先輩たちと夜ご飯を食べにいく。日曜日に課題のやる時間はないのだ。本当は土日が来る前にやってしまえば良いことはわかっている。しかし、「苦のち楽」という考え方を受け入れずに、「楽のち苦」という行動をとることによって、学生という立場を実感しているようにも思える。もちろんそんなことは建前なのだけど。

 

予定のある日曜日に課題をやったとて時間がなくて提出に間に合わないから、土曜日のうちに課題を終えていなければならない。

土曜日の朝は、前日金曜日の冷めやらぬ解放感を、小さな水たまりくらい残して目を覚ます。そして、あっという間の儚い休日が訪れたことを、真上に近づいた太陽の眩しさによって実感するのだ。

 

「そうか、今日は土曜日か。」

 

まず僕は、土曜日を自覚したすぐあとに、翌日が日曜日であることに苛まれる。土曜日の次の日の翌日にはまた授業が始まって、息苦しい毎日が始まる。もう何度も月曜日の1限に行ってなくて、廊下で先生に会うのが気まずい。根性論は体を壊すし、堕落は精神を濁す。

そんな杞憂が募って、なかなか布団から出られない。昼頃で腹は減っているが、食べなくても問題ない減りだ。そうして、13時ごろにようやく布団から這い出る。ちらかった部屋をみてため息。洋服は前日のうちに洗濯かごに出しておくべきだった。

 

炊飯器と冷蔵庫の中を見て、賞味期限が3日くらい過ぎた食べ物を食べる。その時間、僕は自分が動物であることを再認識する。

 

外へ出る必要がなければひげは剃らない。僕は肌が弱くて、すぐにカミソリ負けしてしまうから、不用意にひげを剃ると肌が余計に荒れてしまうのだ。もちろん、人と会う前はエチケットとしてひげを剃るけどね。

 

とりあえずはいつも見ている漫画とYOUTUBEを見る。そうして、ギターを手に取り、適当にならしてみたり好きな曲を弾き語りしたり、ちょっと練習してみたりする。

それに、Amazon Primeで今まで見ようと思って手を付けていなかった映画を見る。そうして見終わると確実に、映画を撮ろうという気が起こり、筆を取る。設定とシナリオを2,3行だけ書いて、筆を投げる。そうしてYOUTUBEで見なくても良いつまらない動画を見る。

 

そうしていると、あっという間に18時くらいになっている。朝ご飯を食べていないので、おなかがすいている。夕食を食べる。冷蔵庫を開けるが、食材が何もなくて少しの間戸惑って冷蔵庫を開けっぱなしにしてしまう。何とか食べられそうなものを見つけて、ご飯と一緒に食べる。開けっ放しにされていた冷蔵庫は元の温度に戻そうと、必死になって音を立てている。

そしてネットサーフィンやら、YouTubeやらでいつの間にか深夜になってしまい、テキトウな時間に寝る。

風呂は翌日の朝に入る。

 

そうして土曜日は跡形もなく消えてゆく。誰の記憶にも残らずに。

 

 

ちなみに、今週の土曜日の僕は課題をやらなかった。

日曜日の僕に課題と孤独を託して、今日の僕は眠りにつくのだ。