ハリボテ探検隊

旅の途中

狂言と、お笑い

今日は狂言を見てきた。人生で初めて見た。しかも生で。3列目で。というのも、道徳教育の先生が、チケット代は出すから興味のある人はぜひ行ってみてはどうかという粋な計らいを授業でしてくださったのだ。それを逃す僕ではない。徒然に突然現れた獲物は大きいものだ。何度も逃してきたのだが。

 

全く教養の無かった僕は、狂言?能とは何が違うんだ??と思って先生にちょろっと聞いてみた。つまるところ、狂言は喜劇が多くて、能は悲劇などが多いらしい。

先生いわく、狂言室町時代に始まったシェイクスピアの演劇よりも長く続いている芸能らしい。

そもそも、狂言が僕らにとって身近なものではないと思う。たまにチャンネルをコロコロと変えている途中に、NHK狂言だか歌舞伎だか見分けのつかない伝統芸能がやっているなと思って、またチャンネルを変える程度である。

 

今日の流派は歴史と伝統を重んじる、現代にあまり寄せすぎない流派だと聞いて初心者でありながら興奮していた。本場の本物が見られるわけだな!

 

最寄りの駅に着き、30度を越える東京のアスファルトを走りづらいコンバースの靴で駆けて国立能楽堂へと向かった。

困ったことに、楽屋入り口、事務室入り口、そして一般人が入る正門と入り口がいくつもに分かれていて、急いでいた僕はハズレを二つ引いてしまい、係りの人に苦笑された後に、残りの正解の門へと向かった。

ちなみに画像は楽屋入り口。


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一応お笑いサークルに所属している僕がお笑いバイアスを通して話すとしたら、お笑いではなかなか無い「間」であった。もしお笑いで言うならば、コントと言えるであろう狂言だが、その揺ったりとしたリズムと大きな「間」にはお笑いというよりは極めて禅や仏教に通じるものがあった。観阿弥世阿弥の本を読めば、理解が深まるのだろう。

 

「緊張と緩和」と「フリとオチ」はお笑いにも通じるものがあった。

 

とにかく間が長くて、セリフを飛ばしていてもばれないんじゃないかと思ってしまうほどだった。その間が長ければ長いほど客席には「緊張」が走り、視線は舞台へと注がれ、演者の一挙一動にどんどんと引き込まれていく。そうして笑いのポイントになると溜まりに溜まった緊張が弾けて笑いに変わる。とは言ってもそんなに大きな笑いは起こらなかった。

そもそも何を言っているか聞き取れないということが一つのフリになっている節もあったように感じた。そして、そういう時に起こる笑いは、比較的若い声が多かった。

あとは、何気に出囃子。これは一つ一つの作品を出す上では絶対に必要なんだなと思った。区切りをつけて場を刷新するという意味もあるし、作品に「音楽」という次元を一つ加えるという効果もなきにしもあらずでは無いだろうか。この理論はかなり無理があるかもしれないが。

あっ、そうだ!狂言を見ていて気づいたのは、漫才のように、話をしていない人は正面を見て、静止していた!これは漫才に極めて似ている!気付きのなかで一番興奮した。

 

なかなか、お笑いみたいに娯楽として見るよりは芸術として鑑賞している気分だった。何よりも、美術館に行ったかように、見ているだけで疲れてしまった。しかし、初めての体験だったし、楽しかった

 

とても当たり前な話なんだけれども、別に狂言とお笑いを同時に考える必要はない。お笑いサークルに入っているからやっているだけだし、あくまでも、どこかでお笑いに使えないかな?というような意図があって書いただけだから。

 

演目が終了した後に、舞台裏の見学をさせてもらった。その際に、釣狐で狐役を演じていた役者さんに話を聞いた。

狐の面というのが、演者が口を開くと狐の口は閉じ、演者が口を閉じると面は口を開くカラクリになっているらしく、どういう風にして狐の鳴き声を出しているのかは企業秘密だそうだ。

狐の鳴き声がこれまた面白く、今では「コンコン」という鳴き声が一般的だと思うが、狂言の世界ではもっと野性的な鳴き声を演じる。それがとても面白かった。

 

ちなみに、その後に東京で就職した先輩と、明日企業の面接がある先輩と、お笑いサークル元会長の人とご飯を食べた。お笑い番長はお酒が進み、かなり酔ってしまった。

元会長は現筑波大学の人間なので、一緒に帰っていたのだか、その途中の北千住で見失った。彼はもう筑波には戻ってこないかもしれない。しかし、それもお笑いだ。

 

P.S.北千住で同じ電車に乗れた。残念。