置かれた場所で咲く?いやいや、置く場所を決めよ
みなさま、ごきげん麗しゅう。いかがお過ごしで??
実は、とは言っても、誰がこのブログを読んでいるのか全く分からず、ただ単に書きたいことを書くというモチベーションで書いているわけです。
それでも結局は自己承認欲求を満たすわけなんだけどね。日記ブログやってるやつなんてみんなそうだから。断言するよ。
とにかく、昨日はバイトを辞めてきた。
残念~~。その一つに人間の関係の良さがあった。店長は「俺はバカ高校出身だからさぁ~」とは言っていたが、人間としてとても出来た人だった。僕が辞める理由を伝えたら、少し残念そうにはしつつも理解をしてくれた。
僕は美輪明宏以上のオーラを持っていない人は尊敬しないので、尊敬はしていないが、嫌いではなかった。ゆえにとても残念だった。
なぜ辞めたかは置いておいて、アルバイトを辞める旨と理由を伝えた時に、店長は
「確かに。ここでは向かないが、君の性質が役立つ場所がきっとあるはずだから、そこを見つけるようにしなさい。俺は君の性質がうらやましくも思うよ」
と言ってくれた。そこで僕はこんなことを思い出した。
多分、僕が中学生くらいの時に流行った「置かれた場所で咲きなさい」という本のことである。
新書大好き、学歴コンプの数学教師が読書自慢を交えて誇らしげに説明していたのだが、あやうく
「ば~~か」
と一蹴しそうになったことを覚えている。
なぜなら僕の信念のうち一つが
自分の身を置く場所は自分で決めること
だからだ。
他人の言いなりに従って身を置かれる人生の何が楽しいんだ!
人間ならば自分で自分の生きる場所を決めるべきなんだ!
それが自分への誠意であるし、人生の責任を取ることであると思うのだ。
そして、身を置く場所を決めたら、そこで咲く努力を精一杯すればよいのである。
咲く努力は絶対に必須だが、そもそも咲く場所を自分で決めなければ、心の底から咲こうと思えないのだ。そんな状態で中途半端な努力をしても意味がない。
ここで、
やりたくない場所に上司とか先生に勝手に置かれたけど、やっているうちにのめりこんでいく小説とかドラマもあるではないか!
とコンテクストからずれたことを言ってくる人がいるかもしれない。
大サービスで、それについて考察してあげよう。まず前提として、そういったドラマでは「仲間と呼べるコミュニティの中の人との価値観の根本的な衝突がないこと」と「能力的に苦手ではないこと」が多いので、やっていくことによって正の方向への認知的不協和が働き、のめりこんでいくのだ。
何か反論がある人はコメントでも、Facebookでも、Twitterでもラインでも寄こして欲しい。
身を置いてみたはいいが、もし途中で逃げたくなったら逃げても良い。
そこは本人の意思である。
この世のどこかには必ず自分のハマる何かがある。置かれた場所で苦しんでいる人はそういう考えをもって、自分で置く場所を決めようとしてみてはいかがだろう?